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粘度の高い小部屋にて

記録や感想など

Vガンダムの家族論は?

ガンダム」の家族論ワニブックス新書)を再読していたのだけど、Vガンダムについてはテーマに家族関係を据えたにもかかわらず、ほとんど触れていない。どうしたことか。

 

病気になる直前に作っていた『Vガンダム』は確かに、病気へと内向していく力が過剰にこもってしまった作品だった。

僕が作品を取り巻く状況に怒り、その鬱憤晴らしを作品の中でやっていた部分もあった。そこに、公はなかった。 

 

 Vガンダムについては、DVDボックスのブックレットなどで富野監督の後ろ向きな発言が目立つが、その中核は家族についての描写をコントロールしきれなかったことにあるのではないかと思う。

まずはBlu-ray BOXでのインタビュー

あくまで「ガンダム」の本線を踏襲する範囲で作った『F91』とは異なり、もうちょっと子供という要素と親子という要素を取り入れた方がいいだろうと考えました。テーマとして家族論をちゃんと設定してみようと。……ところがそこで、ウッソと家族の描き方をまた大失敗したんです。  

 

 『Vガンダム』では、世界各地に離散している家族というものを題材にしようと考えたんです。でも、そのためにウッソと両親の距離を遠くとりすぎてしまって、家族の物語にも見えなくなってしまった。その結果、『Vガンダム』の「本線」というものが、自分の中から抜け落ちてしまったんですね。東欧では離散して暮らす家族も決して少なくはないんですが、僕自身にそういう経験がないから、端的に分かるエピソードを作り出すことができなかった。

 

つづいてはニュータイプ100%より

——ウッソという少年は、これまでに富野監督が手がけてきた作品の主人公の中でも、格段に”よい子”であったと思います。これは物語上の仕掛けでもあろうとは思うのですが、どのような意図があったのでしょうか。

「そのことについては、彼が、なまじ大人から見れば聞き分けのよい子として育てられてしまったために、ガンダムに乗せさせられてしまって、それは非常に不幸なことだったのだ、ということを描くための仕掛けとしています。でも、僕としては”今の時代の子供たちが置かれている位置というのは、あまりよいものではないんじゃないか”ということを描きたいために、彼をあのようなキャラクターとしました」

 

——親子の関係についても、シリーズを通して描かれていましたが。

「親と子供の関係を描きたいのではないのです。さきほど、老人のところで話したように、大人の世代がもつ責任と子供の世代の関係を、見せたかったのです。世の中の構造が根本から変革を遂げているのに、何十年も前の価値観と論理で社会を動かそうとしてはならない、ということをね。そして個々の親子の関係というのは、そのことと密接に結びついているのです。なぜなら、子供の問題というのは、すべて大人に原因がある。だから大人はよほど注意深く行動しなければならないのに、大人は子供に対してあまりに不用意な行動をとり過ぎた。そのうえ、大人が賢くなるためのわかりやすい方法論が見えない時代になってしまった。・・・・・・つまり、そういう意味での親子の問題を見せたかったのです。ウッソの両親が彼に施した教育、あれなんか子供から見れば、たまったもんじゃないんだよ、とね」

 

ウッソは劇中「あなたはもともと私たちだけの子供ではなかったのよ」「あなたを産む前の夜、白いふわっとしたものが現れて”新しい子、ニュータイプを育てる”っていうような夢をみたのよ」「あの現実主義者のお父様までが信じてくださったのよ」と母親ミューラからあらためて聞かされるのだけど、要は親の理想を叶えるためと英才教育を施したわけだ。

「無理強いはしなかったわ」「わたしたちだって苦しいのよ」(エクスキューズ)

 

しかしながら、この場合に見逃せないのが「ニュータイプとはこうであろう」というのがミューラとハンゲルグの価値観によって規定されているということ。物語に茶々を入れるようになってしまうけど、ウッソが生き延びたのは親の教育のお陰だけではない。3話時点でさえ、ウーイッグで街を防衛しているゲリラに捕まってしまっており、少年の姿形のために見逃されたに過ぎない。

もっというと、モビル・スーツの操縦ができない少年であればシャッコーでウーイッグに向かうことはなかった。モビル・スーツという力を手に入れてしまったために空襲の真っただ中へ飛び込むことになり、リガ・ミリティアの戦闘員に迎え入れられてしまった。(ギロチンの生放送も直視させられた!)ウッソはいわゆる、良い子であると述べられていた。目の前の物事にすぐに反発するカミーユとはまた違う。(どちらかというとカミーユカテジナが近い)

ミューラらの期待はあって見事に育っていったに違いないが、それは当のウッソを早死にさせるものだったかもしれないのだ。

 

さて、上のインタビューからすると、 この辺りの世代間のギャップを提示して、ウッソたちの世代に別の価値観を選ばせるというようなところが描きたかった部分ではないかと思うのだけど、そうすると「真にニュータイプとはこうであろう」「ウッソの世代の生き方はこうであろう」というのが対立軸に見えてこないと分かりづらい。

 

ガンダムの定義をするなら、「少年たちが力を得て社会に参加する」物語だと思う。機動戦士ガンダム本編後軍人となってプロパガンダ的な扱いにせよ社会に関わったアムロ・レイと違って、最終回、戦いを生き延びたウッソたちは故郷カサレリアで自給自足に近い暮らしをするに至る。V2は見た目には無傷で、手を入れれば十分に働ける状態に思えるのだけど、それは打ち捨てられたままであった。

ウッソは英才教育を受け、母の作ったモビル・スーツで父の作った戦場を駆け、戦力としては作品世界中ではずば抜けたものを手に入れた。艦隊の提督であったムバラクは戦死したがおそらく連邦軍にもコネができた。コロニー間で小競り合いの続く次代であるから軍に入れば食うには困らないだろう。例えば消極的なかかわり方としても、かつてのゴメス大尉のように年金を待つだけのような安定した暮らしもできるだろう。しかしそれを選ばなかった。

シャクティとエンジェル・ハイロゥがそれを後押しした。

 

戦争は膨大な資源を消費する。モビル・スーツを用いない暮らしというのは大量消費社会との決別でもある。

ガンダム世界での宇宙は、初代ガンダム以来描かれているように人類が開拓しつつあるフロンティアである。ニュータイプ思想とも関連が深く基本的には先進的世界であろう。これに対して、大地で、しかも自然の多く残るカサレリアで暮らしていくということは科学技術的な後退も視野に入れた、分限を踏まえた生活に仕切りなおそうということではないだろうか。

 

「カサレリア」は南太平洋の言葉で、こんにちは、でもあり、さようならでもあるという。リンク先で紹介されているポナペ語の「カセレーリエ」だろうか。

http://www.amd-fsm.jp/school/school1.html

 その意味の通り、カサレリアは作中キャラクター達が出会い、別れる場所となった。

マチス・ワーカーは最後の戦いの向こうに、家族と平和に暮らす場所としてカサレリアを見た。(このときもシャクティの歌声が導いている)マチス部隊の命を吸って、カサレリアは次世代の再出発の場所としてのエネルギーを得たのだ。

 

社会から距離を置いたようなエンディングは一見、後ろ向きな選択に見えるが、大人たちに後を託された次世代としての再出発に相応しい場所なのだろう。

 

そして、家族を捨てて旅立ち、戦いで巣を喪い、疲れ果てたカテジナはカサレリアに迷い込む。彼女は、故郷のウーイッグを目指す旅の途中のようだ。作中で明確になっているウーイッグの住民の生き残りは、カテジナとカルルマンの二人である。その二人がカサレリアで「こんにちは」と挨拶を交わす。

シャクティカテジナに譲ったウーイッグを示すメモリーは、いつも使っているものだという。きっと街は復興しているのだろう。

今度はカテジナが傷を癒され再生するための、そういう別れであると信じたい。

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