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粘度の高い小部屋にて

記録や感想など

ガンダムの家族論(再読) 家族は修行の場!

ガンダム」の家族論(ワニブックス新書)を出版直後に読んで以来なのでもう6年近くになる。先日あらためて再読してみると、作品に取り入れられた要素として、また富野監督の仕事観として鍵になっているものが垣間見えてきた。

本書で、富野作品の批評で挙げられることのある「家族」そして「疑似家族」的なものについて興味深い記述があったので引用する。

つまり家族とは、他人同士のところに、選ぶ余地なく新たな他人である子供が現れたもの、ということだ。家族とは、お互いに愛があるとかないとかの話以前に、ある種の偶然でひとつ屋根の下に住むようになったグループということができる。

(中略)

人間は一人だけで暮らしていると、病んだりしたときに、経済的に立ちゆかなくなってしまう。そのために共同生活という手段でリスクを減らすのだ。そしてもうひとつ、家族――ひいては血族の再生産もまた目的のひとつになる。

要約すると、家族は人間が生き延び、種族を再生産するための共同作業の場であり、そしてその共同作業の場を維持していくための潤滑油や動機として「愛情」が大きな役割を果たしていく。

富野作品の作劇として、しっくりくる部分がないだろうか。本来のスタッフではない民間人を加えたチームで運用されていくホワイトベースガンダム)。また、ソロシップ(イデオン)も近いだろう。

まずは生き延びるために協力し、不和を抱え、トラブルと対峙し、信頼関係や愛情が醸成されていくという順番である。

さらに雑多なチーム構成にしているものとしてアイアン・ギア―(ザブングル)、ノヴィス・ノア(ブレンパワード)、ヤ―パンの天井(キングゲイナー)、メガファウナGのレコンギスタ)などが挙げられる。

こうしてみると主人公サイドのチーム構成が作風自体に反映されているような気がしないでもない。

 

そして、この章題は『「家族」とは修行の場だ』なのである。

確かに「好きこそものの上手なれ」というのは真実なのだが、それは一面の真実に過ぎない。

むしろ嫌いなもの、苦手なものと対峙した時にこそ、人は本来の能力を試される。

嫌いなもの、異質なもの、にわかには受け入れがたいものをいったん呑み込むことで、人は変化することができる。家族こそ偶然集まった人間で構成されたことを意識すれば、そういう変化への契機の役割を果たしていたことに気づくはずなのだ。

 

僕は、保守的な考えの持ち主なので、そういう一見進歩的なものに否定的な感想を持ちやすい。だが、その傾向を超えてなお抵抗があるのは、そこに「人工的に作られたコミュニティ」に対する不安を感じるからだ。

家族は偶然の産物としてそこにある。

ところが、コレクティブ・ハウジング 、ハリウッド・セレブの養子縁組のどちらも、自分たちの好みで恣意的に家族のメンバーを選ぼうとする。

(中略)

僕には、ボランティア精神だけで家族ができるとは思えない。

疑似家族を人工的と感じるのは、そこに「肌(気)の合う人間だけで集まっている」という匂いがするからで、そこには恋愛結婚と同種の問題があるように思う。

くりかえすが、家族とは他人の偶然の集まりだからこそ意味がある、と僕は考えている。肌が合うという理由で集まっているのでは、集団はどんどん内向していくだけだろう。

 この後、本書中ではブレンパワードが例示される。

ブレンパワードという作品では、オルファン(巨大構造物的な生命体)内でカルト化していくリクレイマーという集団と、その対極に偶然集まった異質な集団としてノヴィス・ノアが配置されている。ブレンパワードでは家族が物語の重要なテーマであるが、富野監督は現代の家族が抱えている問題について、同質と異質というところからライトを当て、作品に取り込んでいった。

 

同じ性質を有した人の集まりというのは、安定的に見えて実はすごく不安定で、いったん亀裂が入ると、それまでが過剰な共通の感覚で維持されてきただけに、取り返しのつかないことになってしまう。これは、原理主義の破綻に似ていよう。

ひょっとすると富野監督の「疑似家族」観には、間近で見てきたであろう学生運動なども念頭にあるのかもしれない。

 

家族とは一体、どんな場所なのか。

いろいろな考え方があると思うが、僕は家族とは修行の場だと考えている。間違っても安らぎの場所とは思わない方がいい。

安らぎの場所には停滞しかない。停滞が生むのは、よどみであって、残念ながら未来ではない。

「安らぎの場所であらねばならない」という思いこみから自分を解放すると、家族の在り方についてもっと自由になれる。「家族は安らぎの場所」と思っている人は一度その常識を疑ったほうが、絶対に楽になれる。

家庭という場所で修行を積むのは、まず大人だ。

僕がヤンママに嫌な印象を受けないのは、彼女たちが慣れない子育てを通じて、母親としての修行をしているように見えるからだ。僕自身、家族がいたことが修行となり、偏った性格がエスカレートすることなく無事にこの年まで生き延びることができた。家族がいたからこそ道を間違えることがなかった。

そしてもちろん、子供にとっても家族が修行の場であるのは言うまでもない。子供は家族のなかで社会関係を学び、風土が育んだ習慣を体得していく。

さらに子供が長じれば、大人は「自分の生きてきた時代」と「子供が生きていく時代」の衝突を実感することもあるだろう。これもまた互いにとって修行といえる。

安らぎの場所では失敗は許されないが、修行の場であれば失敗はいくらあってもいい。

「修行の場」とは、真面目な富野監督らしい奮闘の跡が見えるような家族観である。

また、完璧主義や潔癖症の性分がある人にとって、レスキューとなる考え方であるのかもしれない。絶えず緊張やプレッシャーがあり、一方では、失敗が許される場所であれば過去の自分、現在の自分に囚われ過ぎる必要もない。前を向いている外ないのだ。

機動戦士ガンダム(1979年)はエポックメイキングであったという。それまでのロボット物で培ったノウハウや当時集まったスタッフ、映画化を見据えた設計、売り出し方、そして世間的需要との一致といった、天の時、地の利、人の和が揃ってのものだったと思われる。

しかし、総監督であった富野監督(富野喜幸)はガンダムに留まることをよしとしなかった。

イデオンザブングルダンバインとスタッフが入れ替わりながら、後々にまで大きな影響を与える数々の作品を生み出していった。その背景で、富野監督の家族観、その応用としてのチーム観が果たしてきた役割は大きいのではないだろうか。

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